四国の右下(徳島県海部郡・海陽町、牟岐町、美波町近辺)での相続・遺言、成年後見、商業・不動産登記、助成金申請なら海部総合司法事務所へご相談ください。

 

 
 
 
 

家族(夫婦、親子、兄弟姉妹)

  個の尊重、多様性の時代。

  家族も変わりつつありますんで。同性カップル。犬や猫なども家族の一員。

  ですが、ですが。まだまだ「家族」と言えば異性夫婦。、父、母、子供、兄弟姉妹、祖父母・・・・・・。

  「宝物は何ですか?」の問いに「家族」と答える方もいて。

 しかし、最近(令和5年)は家族間トラブルが増えてきています。毒親、親ガチャ。

 昭和の時代にうまくいっていたのは、役割に忠実で、我慢している方々が多かったからではないでしょうか。

 妻として母として、娘として・・・・・。我慢していたり役割に個を(無意識にしろ意識的にしろ)埋没させてきたのは女性の方が多いような気がします。いや、女性、男性に関係なく、立場的なものかもしれません。

家族に誰も悪人なんていない。「ふつうの人ばかり」でも既に、もう家族なんて、とあきらめて、周りから決めつけられた人格と役割を生きておられる方もいるのでは?

「話せば分かる」いえいえ、言葉をつくして伝えようとすると、「理屈」に否定的な人からは倍になって返ってくることも。

悩んでいるみなさま。きちんと話すれば口答えになります。そう、家族に理解してもらおうという幻想は捨てましょうね。なるだけ対立せずに、理解より諦め。穏やかにいきましょう。

 司法書士という仕事も大変ですが、法律というルールがあり、それを尺度に、難解な仕事も進められます(しんどいですが)。しかし、言葉の通じない肉親、理解しあえない肉親とコニュニケーションを取り、自分を押し殺して笑っていくことに比べれば、楽な一面もありますね。

  

願いがかなうとき

 以前のこのブログで、願いをかなえるには、1.2.3.しいのしい~が大事みたいなことを書きました。

 何のこっちゃ!と思う人もいるかもしれません。

 でも長年生きてきて、還暦で、再誕生(ゼロスタート)して、なんとなくわかってきたことがあります。

 自分をよく見せようとか。人と比べてどうとか、全く思わなくなり、私はわたし。

 例えば、もう殆ど小説とか書いてないのに、書き始めたら、なんだか異世界にワープしたようになって、ただただ楽しくて、浮かんできた映像を文字化しただけの小説が賞をとって、その理由をぼんやり考えてみたところ、

 それは「周波数」ではないのか?!と思いました。無我夢中で楽しくてワクワクして、そして哀しくて(これは悲壮という意味でなくものかなしさといったような、切なさといったような感じ)・・・・・

 これが賞をとれるとか全く考えてなかったし、力は入れてはいたけど力はヌケていたなぁ。

 これからは小説ではないけれど、また、あの周波数にのれたら、願いが叶うかもしれない。自分自身の奥底にある邪心のない(こんなおばさんでもあるんだぜ)波動が出せたらですね。

お仕事の話

  このブログでは、かたいお仕事以外のつぶやき的なことを載せすぎているので、少しお仕事を受ける際のお話をします。

 お客さまは、司法書士に依頼をされる時、「私、本当によく分かっていなくてすみません」とおっしゃる方がおられます。そう言われると「いえいえ、みなさん分からなくて当然ですよ。お任せして頂いて結構なんですよ」

 とお答えしています。

 本当にそうなんです。お仕事の依頼のお気持ちや本人確認。登記申請の意思はきっちりと確認はしますが、中身はそんなに理解して頂かなくても良い場合が多いのです。ぶっちゃけ、「丸投げ」して頂いた方がやりやすいこともあるのです。

 たとえば、中身を把握して頂くために、細かい質問にお答えしながら、メールでとても丁寧にやり取りした場合、

 文字を入力するのにすごく気をつかって時間を費やして疲れてしまう場合もあります。

 依頼される方も、言葉では聞き流せることでも、文字になるとその細かい点に疑問を

持たれる場合もあるますし、こちらは分かりやすい言葉で書こうと気をつかいますし・・・・・・

 ですから、はい。丸なげして下さいませ。何の遠慮はいりませんよ。

重要なことはこちらからたずねますので。はい。

 「窓」という2つの唄の違い

  松山千春の「窓」の唄はご損じの方も多いと思います。

窓から見た世界では、「空の青さはわかるけど広さはわからない」と。

つまり閉塞感。だから自由を求めます。

 それとは正反対に谷山浩子の「窓」は教室の窓。そこからはギリシアの海や幾億年彼方の空翔ける船も見えるのです(想像力)。しかし、大きくなって外界に出ると、教室の窓がもう見えない。夢の行き場がどこにもない。

 なんと、逆に夢がなくなって、外界に出て日々の暮らしをしている僕の方に閉塞感。

 普通、目の見える世界だけを捉えると、「窓」の内側の方が狭いでしょう。しかし、谷山浩子はイマジネーションの世界では、心は飛翔して物理的距離や時空さえ超えて自由になれると言っている。

60歳をすぎたおばさん(私です)は今、谷山浩子の世界の方をそうだと思えるのです。これは小説を書いてみたからかもしれない。世界は目に見える世界だけではなく、時空も超えて常識も超えて、心に翼がはえて世界は広がる。それを芸術というんだなぁ

 おばはんは遅ればせながら今頃やっと、そういうのが分かるようになってきました。想像の翼、創造(クリエイト)する広い世界。

  谷山浩子の窓、松山千春の窓、真逆なのです!

 

 命について

 令和4年も暑かったです。園児がバスに取り残されたニュースを見て、いたたまれない気持ちになりました。

他人によって命を奪われる、未来が断たれることの理不尽さ。

また、コロナ禍で目立ったのは、望まない妊娠で産まれたばかりの嬰児が亡くなってしまう事件。

母親は犯罪者という位置づけですが、それ迄行政の窓口に相談し、そこで「特定妊婦」と認定されたら、子育て支援が受けられるのに、あまり知られてはいません。

しかし多くは臨月迄隠し通してホテルのトイレ等で一人で出産しています。母子共にどんなに苦しかったことでしょう。

高齢者は地域包括ケアシステムのもと、介護保険、訪問看護、看取りと、社会制度を利用して多くの方々に支えられて生をまっとうして人生を終えるケースが選択できます。消えゆく小さな命、そして苦しむお母さん(私は犯罪者として責められません)。そこには知的ボーダーと呼ばれる女性たちの存在も。

命は平等のはず。命が育まれる世界であってほしい。     

世間、社会、世界、宇宙

  暑さが続いて、皆様お疲れさまです。

  世間を騒がしている心痛めるニュース。社会の人間関係に疲れ、家庭で良き父、母、賢い子供。みんな頑張っている。

 世間や社会とつながりすぎて埋没した「個」は自然界とつながって一息つきます。ただの私は世界とつながる。

ぼおっと川の流れや寄せては帰る波を見て、水平線のかなたに目をやり、天高く飛ぶ鳥を見て

心を休めます。

 町の墓地には花やしきび、槙が綺麗に飾られてます。高齢者は炎天で花木が枯れてはいけないと

 毎日お墓に通っています。ご先祖を思うお気持ちも勿論おありでしょうが、花木を枯れさすまい絶やすまいという義務感や責任感で老体にムチ打って行かれる真面目な方もいらっしゃることでしょう。

 お墓は一種の社交場なので、ご近所さんとも言葉を交わし、それはそれでいいのかも。

 でも、私は祖先を敬う気持ちはあっても、そうして毎日お墓に行くことはできません。そして、自分がそうして

もらうことのないよう、骨は残さないようにしようと思っています。娘に言うと「いいんじゃない?」とのこと。

 世間のしがらみ、社会の人間関係のない自由な世界でいい加減に無責任に生きてみたい。宇宙の風にふわふわ飛んでいたい。

奇跡が起きるとき

 ↓下記ブログで書いた小説が、 受賞しました!!!!

 暫くは現実感がなく、夢を見ているような感覚! 奇跡ってあるんだと思いました。

   応募した小説を書くときは、ただただ脳裏に浮かんでくる映像を指で追って追って・・・・

自分も映画を観ているような感覚!楽しかった!

 勿論、書いた後は推敲して加筆修正はしましたけど、よく純文学の作家の先生が仰るような

文体に凝ったり(純文学は読みやすかったらダメだそうです。宮本先生は読みやすい文章を

書けと仰っておられますが)しないのです、というか、その能力がないのです。

  楽しく書いてはダメなのかもしれません。それに父親の末期を書いているのに楽しいなど、

薄情、不謹慎と言われるかもしれませんね。でも、父親は喜んでいると思います! 

  56回北日本文学賞

父の死と小説

 父親が令和3年10月に亡くなりました。94歳。84歳で漁師をやめてから、父親は「大正15年・・・」と生年月日や住所等、細かい記憶はスラスラ言えても自分の年齢はいつも永遠の84歳。

 私は昔、まねごとレベルの小説を書いていました。でも、波乱万丈の人生でとても余裕がなく、53歳で司法書士となり今も忙しいのですが、父の余命がもうない状況のなか、父が主役の小説を「バババッ」と書いて、ある地方文学賞に応募しました。そこは一次予選から四次予選まであり、一次予選に自分の名前(素人なので筆名などない)と題名を見つけたときはとても嬉しかった!!!しかしその時には既に父は他界。戒名は「寿海…・信志」

 「父ちゃんの(漁師が主役の)小説書いてくれよ」と30年前に言ってた父には報告できません。小説の題名は「虚海(そらうみ)の船」です。認知症で虚実ないまぜになった元漁師の父と娘の世界観。

 予選は二次まで通過しました。でも何度も読み返したのですが、誰にも見せず(というか見てくれる人もいない)出したので、誤字脱字あり、主語がなかったり・・・・・・よくこれで二次通過したものです。下読みの先生方、本当に有難うございました。父もきっと喜んでいると思います。

 小説は、最後、娘が父に送る俳句?のようなもので終わるのですが、これは実は、私が書いていません。

 というか、私が入力はしているのですが、あら不思議。入力している私が

 「え? これ、主語が『娘が』、になるの? え、これが父ちゃんを見送る言葉なの?」と見えない何かに心の中でつぶやいていました。するとあら不思議、そんなような心で、父が息を引き取る瞬間をたんたんと見送ったのでした。

 でもこれは私の心がけでも何でもありません。父親の最期の10日間がそうさせてくれたのです。この小説には父も参加していたのかしら・・・・

人に相談するということ(法律相談はのぞく)

 法律相談では、事実確認をし、その事実に対しどの法律を適用し、解決に導くか。その為に、相手の気持に共感しながら、事実を探っていきます。その中で、本来の事実関係に無関係なようなことでも、とりとめもない繰返しの中にも解決の糸口がある場合もあるので、「さあ、手短に言って下さい」とは決して言わず、まず聴くという姿勢をとります。

 それはさておいて、男女の悩み、友人の悩み、人生の悩みにおいて、周りの素人の方に相談すると、相手は自分の短い経験の中で答えようとします。特に男性頭脳では、問題に対してこの答えと、問題点⇒解決するにはこう、と

結論を急ぎがち。でも女性は気持をただ聴いてほしい、という場合、大変さをわかってほしい場合もあります。

また相談する側も、自分が考えている答えのようなもの(ぼんやりとある)を相手が返してくれないときに、「あっ、この人は私の気持を全然わかってくれない」と結論づけます。案外、人は、自分の求めているような答えを他人の口から聞きたがっているのかもしれません。

男女間で「あなたは私を幸せにしてくれると言ったじゃない」「おまえは俺に尽くしますと言ったよな」のセリフ。言葉にしないまでも、ある種の期待感。もう幻想は捨てましょう!!基本、自分は自分で幸せになりましょう。自分の何かを抑制して相手を幸せにすることなどおかしいです。これからは相手を尊重し、干渉しないこと。愛、思いやりとそりゃあ、あったら良いでしょうが、最低限、個人の尊重、多様性を認めあって、それからだと思います。

家族間でもそう。「あなたのことを思って」と親が子の進路を阻んだり、親が子を「心配してる」と嘆くのは愛情だけでしょうか。結婚しない子、妊娠しない子、進学しない子、親が思う進路に進まない子を心配して「あなたはいつまで親に・・・」とそれが親の愛情のように言ってますよね。

「まあ、人それぞれ」「まあ、色々あるよな」と、見守ることの方が愛情だと私は思います。

かなしい気持のあなたへ

 人間、人と人の間。人間は他人との関わりの中で生きています。職場、地域、家族、親戚。

優しい人、舐められがちな人、気弱な人。私は比較的良い人間関係の中にいた方だとは思うけど、上からモノを言ってくる親切?な人。自分はいつも被害者?と攻撃してくる人。こちらが説明をしようとしても、それを「口答え」ととる人・・・・いましたね。

まじめなあなたは、自分が優位に立とうとかそんな考えもなく、ただ分かってほしい、理解してほしいと苦しい気持ちで相手に伝えようとして、更にかなしい気持になったことはありませんか?

親しい人間関係の中でも、理解し合えるとは限りません。例えば家族の末っ子は、産まれた時から何もできず未熟な存在として位置ずけられていると、助けられている存在としては「ダメな子」と上からの愛情をかけられたかもしれませんが、ひとたび自立し社会を見て、正論と呼ばれる意見を言おうものなら「偉そうに」とかマウントをかけられたりします。

わかりあえるという幻想を棄てて、技術で「対応」してやりすごしましょうね。やさしいあなたが傷付かないようにね。 

笑顔

 町で知人を見かけたので、「元気ぃ?」と笑顔で手を振りました。するとその方は不機嫌な顏をして「元気そうでいいね」と言いました。「私は、体がしんどい」と。まあ年齢的にいつも元気という訳にはいかないですね。ご自分がしんどい時に元気そうな顔を見せられると嫌な方もいらしゃいますから、考えないといけないですね。

 仕事で、お客様が過去の辛かったことをお話するときがございます。ご自分が離婚したことに触れたときに、「私も同じです」と言うと、心が通じることがあります。そして、子供の父親が長く行方不明であったこと等も言うと、「そう見えない」とまで言われます。私の顏はさして苦労なく生きてきたように見えるらしいのです。でもその方だって、笑顔が素敵です。

 私の娘は「小さい頃、夜中に起きるとふすまからゲンコツの手が出てきた」の記憶があるようです。元夫が暴れて、あちこちが壊れ、ふすまには大きな穴があきました。その娘は養護の先生になり、子供たちには笑顔で接しています。家庭の事情で心を閉ざした子供にふと、「先生もそうやったで」と言った瞬間に心が通じる場合があるそうです。子供に笑顔が戻りました。

文章について

 知り合いが初期の頃のブログを見て、「神戸さんの文章は硬い。もっとくだけた文章を書かないとと言われ、もっと遊んでもいい、閲覧者は、法律のことなんて期待していないからとか。一方では、司法書士のブログなんだから、相続とか、法律や司法書士の業務にまつわることを書くべきとか、仰る。

 とは言っても、私はツイッターもしないので、私のこのささやかなるブログ?を見てる人なんかいるやろか、と思いつつ、見えない相手に対して文章を書いてます。「何について書いてほしい」という要望がありましたら、メール頂けたらそれにお答えしたいので、下さいませ。

 昨日は、ミラクルひかるの小池都知事のマスク物まねに爆笑(おばはんは両手を猿みたいにバチバチ叩いて喜ぶ)して、心がすっきりした。しんどい時は文章より動画ですね。そう、ものすごく、心疲れしんどかったのです。

 もし、私のブログを開けて下さっている希少(?たぶん一人もいないかも)な方、ミラクルひかるを見て下さい!

願いを叶える方法 

 願望達成方法はいろいろあって、コレという方法は人それぞれですが、私の場合は人事を尽くして天命を待つという平凡?な方法でしょうか。人事を尽くすとこでは、1,2,3,4でもし願いが叶うならば、最後の4の「い~っ」です。

1,2で叶う人は運がいいのでしょうか。それとも無意識に4までいっているのか。それでも「いち、に、さん、しい~っ、い~っ!」とやっているのではないでしょうか。でもい~っの時はほぼ我を忘れて自覚はないでしょう。

 私みたいな凡人で、中高年のおばはんの場合は下手をすれば死にます。司法書士試験は53歳のおばはんで受かりましたが、試験会場で多分、この「い~っ」が多分、きてました。無我夢中!、我を忘れて夢の中です。

 必死、こわいですね。必ず死ぬと書きます(笑)!!

 認知症と白内障

  父親は重度の白内障で、車で往復4時間かけて有名な病院で診てもらい手術の予約をしてきました。ところが、手術を受けないと言い出してきて、10ぺんに一度くらい、「受けてみる」と言うのですが、後は拒否。「年寄の眼が治るはずがない」に対し、白内障の説明をしているのですが、なんせ理解ができない。おまけに短期記憶障害の為、いったん納得しても又忘れるで、今までさあ、50回は説明したでしょうか。同じやりとりの繰り返し。エンドレス・・・

 そして父親を納得させられないまま、手術当日を迎えました。特別に許可をもらって、私もキャップを被り、手術着を着て、手術の付添い。

 父親はあおむけになって、一応、じっとはしているものの、光の方へ眼球を向けるということができません。先生が「ライト!ライト!ライトの方へ眼をむけて!」と何度も言ってるので、私も横で必死になって「光やで光!光を見るんやで」と叫びます。ライトと言ってもたぶん、わからないのでしょう・・・・・・なんとか手術できるようになって、それでも何かと問題もあり・・・・手術後も何かと大変なこともあり・・・で。

 なんと殆ど視力のなかった目に光が戻り、目が見えるようになったのです。もう奇跡のようです。すると、少しだけ認知症の症状も良くなってきたような気がします。今まで何を食べていたのかも分からなかった食べ物も見えるようになり、一人で食事ができるようになりました。

 仕事って…盲導犬・・・・・涙

 大阪で仕事して疲れて電車で帰るとき、盲導犬を時々見かけました。犬目線からは無数の人間の足、見下ろす好奇の目線。地下鉄の轟音。うるさいマイクの音。

心ない人からタバコの火を押し付けられても黙って耐えて。毛が焼けこげ黒くなり、火傷を負っていることさえあります。

 そんな盲導犬は寿命が短く、10年経つと老犬ホームのようなところで晩年を過ごすのですが、パピーといって子犬の頃1年間だけお世話になった家族の元に引き取られることになった老犬の画像を見ました。10年前に見慣れた景色。車の中からもう分かっていたのでしょうか。車から降ろしてハーネス(犬用の胴輪)を外すと、なんと

 走ったのです!!!!尻尾を振って!犬が走る。尻尾をふる。その当たり前のことさえできなかった。盲導犬という過酷な仕事。意思で走ることさえ許されなかった。お仕事をもうしなくていいということをハーネスを外した瞬間に分かったのか、子犬の頃を思い出したのか。

 10年前の飼い主さんの腕に、尻尾をふり飛び込んで、体を摺り寄せています!!

 「もうお仕事しなくていいんだよ。走っていいんだよ。好きなときに甘えていいんだよ」

 涙があふれました。

突発性難聴から、補聴器愛用

  おかげさまで、まもなく、開業して2年を過ぎました。田舎の来客システム(ほぼ予約なしで、来られる)にも大体慣れてきましたが、最近は、土日もなんとなく仕事をしてしまっているせいか、電話もかかってきて、結局、毎日仕事をしている状態に。

 とか何とかで突発性難聴になり、左耳の聴力が回復せず、昨年から補聴器をつけています。ただ、補聴器を音量をカバーするだけなので、聴き取りは悪いです。早く病院へ行けばよかったな・・

 

卒業

  最近は卒業という言葉がはやる。何かに一区切りつけて次のステップに行くときに「やめた」といわずに卒業したという。「私は〇〇を卒業します!」 卒婚、卒母、卒サラ・・・・・・

  人生を卒業したときが「死」なのかな。私はまだまだ卒業できないので生かされている。

  尾崎豊の歌詞で、「あと何度自分自身、卒業したら本当の自分にたどり着けるだろ・・・」
はとても意味深い言葉で、著名な哲学者や大学教授が、この言葉に感銘を受けている。

  私もその中の一人だが、これがただの学校を卒業した学生の唄ではないことが次の歌詞

  「仕組まれた自由に誰も気付かずに、あがいた日々も終わる」「この支配からの卒業」
「闘いからの卒業」

  10代の若者が、この言葉を紡いだということに衝撃を受けた。

 

言葉、まなざしの対話

「言わなくてもわかる」

  恋人、兄弟、親子、友人。必要なことは言葉にした方がいいのか。分かり合えるとはどういうことか。

 時と場合による。と思う。

 例えば、言葉を発し始めた歩き始めた幼児がいるとしよう。
お母さんは、幼児が言葉の意味が分からなくても優しく語りかけることは必要であろう。

 しかし、秋の夕暮れ時、山に夕日が沈みかけるとき、また、海から朝日が昇り始めるとき、
目の前には大自然のパノラマごとく、オレンジ色の夕焼けが、朝焼けが、美しい景色!!

 幼児の感受性に響いたのか、つぶらな丸い瞳を見開いて、「オウ、オウ!」と声を上げ、両手を
バタバタ、感動に浸っていて、母親の顔を見上げたとき、

 母親はただ、ただ、共感のまなざし(そうね、そうね)の笑顔で十分。幼児は共感を得ると、
その自然な光景に目を戻して、また自然と一体になっている。

 これが認知症の方でも障害の方でも、健常な男女でも同じだと思う。

私は成年後見人として、終末期のご老人と言葉のないコミュニケーションをまなざしと握った手でさせて頂くことがある。医学的には意思能力、判断能力がなく意思疎通困難と判定された方でも、生きていて、窓からの風に触れ、光を浴び、私の声や手の温もりを感じて、その方が少し、笑ったように見えて、皺だらけの中の小さな瞳のまなざしを感じるとき、優しい雰囲気に包まれる。私も穏やかにまなざしで返す。そして、癒されるのだ。

0(ゼロ)葬。あっさり死ぬ

 「骨まで焼いてください。墓はいらない」

 最近、小さな葬式が流行っている。家族葬や友人葬。そして火葬場での直葬。ただし、いくら葬儀の簡略化が進んだとしても、遺骨は残る。
そこで究極の葬儀が「0葬」である。西日本の火葬場では、申し出があれば遺骨を引き取らなくてもよいところがある。その残骨はどこに行くのか。いろいろな説があるが、業者が引き取り、骨を機械で粉砕してお寺で供養される。そのうちの一つが、
石川県輪島市にある曹洞宗大本山總持寺祖院である(今は横浜市に移転)。總持寺には残骨を処理する業者の団体が建立した観音像「全国火葬場残コツ灰諸精霊永代供養塔」があり、残骨はその背後にあるステンレスの容器の中に納められ供養されている。火葬された骨が最終的になんらかの形で供養されるのであれば、永大供養墓に合祀するのと変わりはない。

 ハイテク火葬場ができて、すべてが燃え尽きてしまい遺骨が残らない方法も選択できるようになれば、「骨まで焼いて下さい。墓はいらない。私は0葬」と唄の歌詞でもなりそうだが、
それはあくまで一つの選択肢として考えたい。葬式や墓参りが一種のグリーフケアになる場合もあるからである。

  

 

 

 

 

 

 

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